jap_siroディべートに対する批判より
ディベートを教育方法として用いる時、時折、次のような批判を受けることがあります。
 

「ディベートは与えられた立場を正当化するための技術を磨くことであり、非倫理的で、その技術が悪用される危険がある」と。
 

確かに、ディベートでは与えられた立場を正当化するために議論をします。
そして、培われた能力は、どのような立場でも正当化しようと思えば、論理で正当化できる能力です。

しかし、これだけでディベートの技術を学ぶべきではない、と結論することはできないと我々は考えます。
 

jap_siroディべート普及の意義
ディベートで培われる技術は使いようによって、善にも悪にもなります。

これを踏まえて、ディベートを普及させる意義の一つに、ディベートの技術を悪用する詭弁を見破るという事があります。


この点に関して、哲学者アリストテレスは次のように述べています。


「真実の説得方法と見せかけの説得方法とを見究めることも、明らかに、同じ弁論術の仕事である。この点は、弁証術の場合、真実の推論と見せかけの推論とを見究めるのが同じその知識の仕事であるのと同じことである。というのは、言論が詭弁であるかどうかは、技術の働きそのものによってではなく、論者の意図によって決まるからである。」
 

情報の洪水とも言うべき、現代を生きる私たちにとって、デマや情報操作に紛動される危険は常に存在すると思います。

故に、私たち一人一人の市民が、真実を見極める頭脳を鍛えていくことこそが、民主主義の土台となっていく、私たち、ディベートクラブ「たま。」はそう考えます。


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 ディベートの限界と他者理解の心

また、『星の王子さま』で有名な、サン=テグジュペリは、次のような言葉を残しています。


「人間と、そのさまざまな欲求を理解するためには、人間を、そのもつ本質的なものによって知るためには、諸君の本然の明らかな相違を、おたがいに対立させあってはいけない。そうなのだ、きみらは正しいのだ。きみらはいずれも正しいのだ。理屈はどんなことでも証明する。」
 

ディベートで培った能力で、何かを正当化することはできても、そこで対立を生んでは、他者と理解しあうことはできません


ここにディベートだけで培う能力の限界があると思います。


ディベートでは、相手の意見を黙って聞くこと、自分の主義とは違う立場に立ってみること、他者理解のために、普段はなかなかできない有意義な訓練をすることができます
 

だからこそ、剣道家が竹刀を暴力に使わないのと同じように、ディベートの能力が「諸刃の剣」であることを知り、他者と理解しあう心を持ち続けていきたい、ディベートクラブ「たま。」は、そんなディベート観を持って、活動を通じて他者理解の精神を養いながら、分かりやすい、伝わるディベートを目指していきます。


※アリストテレスの言葉は、戸塚七郎 訳『弁論術』、岩波書店、1992年より。
 サン=テグジュペリの言葉は、堀口大學訳『人間の土地』、新潮文庫、2001年より。